讃岐路(涅槃の道場)
11月30日(日)曇りのち晴れ
明日からいよいよ師走だ。天気もまあまあ良さそうである。昨夜泊ったところは歩き遍路専門の宿で、夕食は6時、朝食は6時できちんと済まさせる方式が徹底していたが、般若湯の制限がないのが救いだった。同宿人は50~60歳くらいの男性、女性、各々2名、いずれも単独行で食事が終わればさっさと早発ちし黙々と歩こうという人たちばかりで、朝方はノンビリしようなどというケシカラン輩は私一人。それでも6時半過ぎには宿を追い立てられるように出て、前の日に見損なった四国最古の、奈良時代鋳造と伝えられる鐘を見物するため、いったん国分寺に戻った。まだ薄暗い境内では、おそらく近所の人だろう、中年の女性がお百度参りらしき動きをしきりに繰り返している。トイレを探したが、あいにく大師堂の門が開いておらず、やむなくさっき出たばかりの宿に戻り、無理を言って用を足させてもらった。
気分爽快となったところで、八十八カ所最後の“遍路転がし”と呼ばれる難路が待ち構える八十一番白峰寺(シロミネジ)に向かう。これまでにも何カ所かあった遍路転がしはバスやロープウェー、さらにはタクシーでごまかしてきた。足も不調で自信はないが、せめて最後の難所くらいは自分の足で歩き、転がされるのなら転んでやろうではないかと半ば開き直った気分で、宿の奥さんが格好の目印になると言っていたラブホテルの角を左折し、1kmほど先にそびえ立つ尾根を目指して歩きだした。
前方の仰ぎ見るような山々からは冷たい風が吹き下ろし、思わず上着の襟を立てたが、雲間からは青空がのぞいている。途中、“国分寺史跡資料博物館”の看板もあったが、朝の7時では開いているはずもない。そのまま20分ほど直進して右折から左折し、いよいよ四国札所最後の遍路転がしの登りにかかった。いざ坂道を歩きだしてみると、なるほど急勾配の連続で、10分もしないうちに息が上がりだす。50歩数えて一休みするやり方を繰り返し、急な坂道のジグザグの角毎で立ち止まるといった具合で、さっぱり高度が稼げない。途中の水たまりの前には“マムシ注意”の立て看板がある。初冬だからその心配はなかろうが、熊やイノシシはどうなのかといった不安も出始め、早くも当初の開き直りが後悔の念に代わりだした。情けない限りだが、日頃から肉体と精神の鍛錬を怠り胃袋ばかり鍛えてきた報いなので、誰を恨むこともできない。
ジグザグが始まってから五つ目あたりの角で、だらしなくもベンチにへたり込み、何の気なしに脇に生えている木の枝を見ると、ホオジロとおぼしき小鳥が2羽、手を伸ばせば届きそうな所にとまり盛んにさえずっている。人を恐れる気振りも見せずにチーチーと鳴く実に可愛い姿に励まされ、ふたたび坂道をはい上がる修行を続けたが、何とこの小鳥のカップルは、私がジグザグの角でヘタるたびに、近くの小枝に姿を現すのである。はっきり覚えていないが、恐らく1時間を超す悪戦苦闘を続けてようやく尾根のてっぺんに出ることができたが、小鳥たちはそこまで見届けてから、まるで別れを告げるように飛び去った。私はなぜか最近2歳になったばかりの孫娘を思い出した。小鳥はこの孫が「ジイチャンしっかり」とばかりに送り込んでくれた応援団だったと確信し、柄にもなくジンとしてしまった。これからも小遣いを奮発しなければなるまい。
尾根道に立ち振り返ると、国分寺周辺の街並みが眼下に広がり、雲間から朝日の光が何本も放射状に走っており、まるで大日如来の光背のような神々しさを感じ、つい先ほどの後悔もどこへやら、やはり歩いてきて良かったと思った。実に現金なものだが、今さら治しようもない自分の惰弱さを十分認識し、お迎えが来るまで生きていかねばならないのである。標高400mほどの尾根道をさらに2kmばかり、落ち葉を踏みしめながら歩き白峰寺に参拝。ここには前日参拝した天皇寺で崩御された崇徳天皇の御陵が祀られており、院を慕ってはるばる京から尋ねてきた西行法師の石像のかたわらには次のような和歌のやりとりが記されている。
崇徳院: 松山や 波に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな
西行: よしや君 昔の玉の床とても かからん後は何にかわせん
崇徳院と、その生前に恩寵を受けた西行との親密な関係を示す歌だが、不勉強な私にも、院の不遇の生涯とそれを残念がる法師の気持ちをうかがわせて余りあるように思える。山深い寺の片隅にある史跡だけに尚更そうした感慨が湧いたのだろう。帰宅したら、吉川英治の“新平家物語”を改めて読んでみたい。
八十二番根香寺(ネコロジ)は、先ほど歩いてきた尾根道をそのまま戻り、さらに4kmほど離れたところにある。先ほど登ってきた遍路転がしに比べれば平たんな尾根とはいえ、そこそこにアップダウンのあるかなりきつい道のりだったが、天気も快方に向かっており、難所は越えたことでもあり、あたりの紅葉を楽しみながらノンビリ歩くことができた。私の足の裏も、舗装道路より柔らかい山道ならあまり痛まないようだ。ここは結構人気のあるハイキング・コースにもなっているようで、遍路以外にも大勢の子供たちが列をなして歩いていた。
この行軍の最中に、四国入り後、ヒョンなことから連絡をとっていた伊予在住の友人から携帯電話がかかり、午後の私の参拝を車で御接待してくれるとの実に有難いオファーがあり、天の恵みかと欣喜雀躍した。この友人も四国八十八か所の巡拝を続けていることを後で知ったが、それにしてもわざわざ私のため休日を返上し高級車を出してくれたことは感謝に堪えない。
結局、友人とは根香寺で落ち合い、八十三番一宮寺(イチノミヤジ)、八十五番八栗寺(ヤクリジ)、八十六番志度寺(シドジ)、八十七番長尾寺(ナガオジ)の五カ寺を、それこそあっという間に巡拝することができた。一宮寺は、その名の通りかつて“讃岐一の宮”の別当寺であったのは間違いなく、隣接する田村神社に詣でたところその通りであったので、御朱印を頂いた。境内には屋根付きの土俵もあり、実に風格のある神社である。ロープウェー(往復で900円ばかりだったと思う)で上がる八栗寺は、高級花崗岩の庵治石を産出する半島の山上にあり、源平古戦場で有名な屋島の対岸に位置する。八十四番屋島寺(ヤシマジ)を飛ばす形となったのは、友人の車のナビが車の通れない細い道に誘導したためらしい。
志度寺でのことだが、我々が本堂に着いた時、塗り傘をかぶった貫禄のある遍路夫妻が参拝中で、旦那の方が実に聞き惚れるような力強い声で読経され、ホラ貝まで吹いている場面に出くわした。思わず「実に良い声ですね」と話しかけたら、関西在住の先達さんとのこと。初遍路の私が持つ薄い紙の白札と交換に、立派な布製の納め札をくれたが、これがいわゆる“錦の札”で、八十八カ所を100回以上参拝した遍路のみが持参を許されるものらしい。この御札を貰えるのは大変縁起が良く、欲しいと願ってもなかなか手に入らないとのことで、遍路行も終わりに近づいたときに伊予の友人がもたらしてくれた思わぬ幸運に喜び、これから先も大切に保存しようと思っている。伊予の友人は「この調子なら最後の大窪寺まで足を伸ばせるかな」とおっしゃったが、それだけは自分で行かせて欲しいと贅沢を通させてもらった。結局、高松駅前まで送ってもらいあっさり別れてしまったが、私としては彼の親切に対し、今後のご健勝を衷心より祈るしかない。
この日は高松駅にほど近いビジネスホテルに宿泊し(素泊まり5,000円)、近くの居酒屋で焼酎の湯割りを4杯ほど平らげ(3,500円)、翌日の最終日に備えてぐっすり寝た。午前中の修行がものを言い、歩行実績は30,000歩21kmとなっていた。


