四国遍路紀行

四国遍路

伊予路

11月28日(金)雨のち曇り

 昨晩泊まった近頃流行りの日帰り入浴もできる宿は部屋も広く(8畳間)、私にとってはやや贅沢なところだったが、温泉につかりうまい飯も食べ、たっぷり休養できた。この日は早朝から雨がかなりの勢いで降り出していたので、リュックの底から引っ張り出した上下の雨具を身に付け、ずぼらな私としては感心なことに前々から用意してあった防水カバーをリュックに装着し、いつもは頭がこすれて痛いのでこれもリュックにくくりつけている菅笠をかぶった完全武装で、08:00頃宿を発つ。春からの分も含め、私のこれまでの遍路行は実に天候に恵まれ、結局、ズボン用の雨具まで身に着けたのはこれが最初で最後となった。

  いったん弥谷寺の石段の上がり口まで戻ってから右折し、雑木林の中を通る昔ながらの遍路道を下っていくと、色づいた木々の葉っぱの間から何か白いものがパラパラと降ってきた。良く見ると雹(ヒョウ)である。神仏は私の行動を漏らさず観察しておられ、昨日のタクシーと温泉三昧の埋め合わせとしてこの試練をお与えになったのだろう。ただ遍路道は緩やかな坂を下る一方で、体力的には楽だった。ヒョウもしばらくして止んだので気分よく歩き続けていたところ、芝犬と秋田犬のあいのこみたいなやや大型の野犬が突然私の行く手を横切った。こちらが反射的に金剛杖を横に構えたら、ワン公はあっさりと横手の藪陰に姿を消したので、ほっとした。

  30分ほどでようやく人里に出て国道をくぐる遍路道をたどり、さらにひたすら歩いた。ベテランの本格遍路が私の横をトットと追い抜いていく。遍路道が国道沿いの歩道に代わり、信号待ちをしていたら、軽乗用車が私の目の前に停車し、運転していた奥さんがミックスナッツの袋をお接待してくれ、こちらが礼をいう間もなくあっさり走り去った。雨が小止みとなり空が明るみだした頃、ようやく七十二番曼荼羅寺(マンダラジ)にたどり着いた。途中の道端には、5月に阿波路をたどり始めた頃、白いかぐわしい花を咲かせていたミカンの木が黄金の実をたわわに実らせていた。昨晩のテレビニュースでは、インドの旧ボンベイで多発テロがあり、100人以上が殺されたらしい。ここ四国ではミカンがのどかに実り、寺には団体の遍路が楽しそうにさざめいている。日本ほどいい国はない。日本に生まれて本当に良かったと思う。

  曼荼羅寺から500mほど離れた七十三番出釈迦寺(シュツシャカジ)にかけての一帯は、かの保元の乱で後白河天皇と争って敗れ、讃岐に流された崇徳天皇を慕って訪ねてきた西行法師が草庵を結んだ場所というので、納経所の奥さんに道順を聞いて尋ねてみた。結局見つからなかったが、山の斜面の日当たりの良さそうなひなびた場所で、今にも西行さんが横道から姿を現すような情景を想像しながら、田んぼの畦に腰を下ろし休憩した。寺の裏手にそびえる山には“捨身が嶽”というすさまじい呼び名がついている。幼少時、ここで修業をしていた弘法大師が空中に釈迦の姿を見て崖から身を躍らせたところ、天女がフンワリと受け止めてくれたという伝説の霊場だが、上り下りに2時間ほどかかるとのことで、下の方から遥拝するだけで勘弁してもらった。

  出釈迦寺からの下り坂では瀬戸大橋が遠望できたが、七十四番甲山寺(コウヤマジ)から七十五番善通寺(ゼンツウジ)にかけての田んぼの中に続く遍路道は平坦ながら距離があり、ただひたすら歩くしかない。このあたりは昔から慢性的な水不足に悩まされ、古代豪族“佐伯氏”出身の弘法大師が“満濃池”などの溜池造成に心を砕かれた土地柄である。できればそうした池も見学したかったが、善通寺から50kmほど離れた遠方にあるらしいので断念した。

  弘法大師生誕の地に建つ善通寺は、さすがに四国総本山というだけあって寺域広大で、その隅に位置する本堂を捜すのに手間取った。他の寺々と異なり、ここではあくまでも大師堂(御影堂)を中心とする配置となっている。境内をしばらく散歩していたら自称80歳のオジサンと出会った。いろいろ話をしたところ、この人も現在の住所は武蔵の国で、息子さんが善通寺に近い農水省の官舎にいるので、車で近くの寺に連れて行ってくれ、孫にも会えると、実に嬉しそうだった。

  まだ昼を少し過ぎたばかりであったので、朝方予約しておいたJR善通寺駅近くのビジネスホテルS(2食付き6,500円)に荷物を預け、JR線で隣の駅まで往復して(160円x2)七十六番金倉寺(コンゾウジ)に参拝した。この寺にかつて乃木将軍が宿泊した際、はるばる東京から訪ねてきた奥さんに面会を許さず追い返したとの逸話があり、奥さんがそのたもとで途方にくれたと伝わる松の木(何代目かと思われる若木)の横に説明の石碑がある。乃木夫人は、その後の日露戦争で二人の子息を失い、ついには明治天皇に殉じた将軍のお供までした。明治とはそういう人物の生きた時代であったことを改めて考えさせられる札所である。歩行実績は25,000歩、16km。