四国遍路紀行

四国遍路

阿波路

5月16日(金) 快晴

 6時頃目覚め、ホテルの窓から雲一つない大空に太陽が快調に上がりつつあるのをややうんざりしながら眺めていた。人間は贅沢なもので、雨が降れば文句を言い、晴れたら晴れたで暑くてたまらんと愚痴をこぼす。すべては修行の足りなさからくる怠け心であることは間違いないし、ましてすき好んではるばる四国まで出かけて来たくせに、何という情けなさだ。

 それでもとにかく7時過ぎには駅前のバスターミナルの案内嬢に聞いた寄井中(ヨリイナカ)行きに乗り込んだ。乗客は私を除き高校生がほとんどで、途中、小学生が数人乗ってきては二つほど先の停留所で降りるということが2~3度あり、高校生の方はだんだん増えて、ついにはバスが満員となった。寄井中は、前日参拝した藤井寺とは山を挟んで反対側となる吉野川の支流“鮎喰川”(アグイガワ)の最上流付近に位置する過疎の深刻な田舎町だ。そんな奥地に向かうバスになぜ高校生が大挙乗ってくるのか、多分途中で降りるのではないかと思っていたが、彼らはついに終点まで乗り続けた。そこにある高校の生徒たちとのことで、後で聞いたら、農業土木科が就職率の関係で最近は人気が高まり徳島市内からの入学者がずいぶん増えているという。

 焼山寺の上り口となるバス停(ここまでのバス代1,000円)近くのスーパーで山登りに備えたお茶を買い込み、歩いてどの程度かかるか聞いたところ、行きが3時間帰りが2時間の合計5時間は覚悟する必要があるという。地元の人間の見積もりだから、私のような弱足ではおそらく6時間でも済まないだろうと、登るか登るまいか迷っていると、「タクシーが簡単に呼べる」とのことだった。まさに悪魔の誘い(イザナイ)である。

 その後の経緯は、あれこれ説明する気も起きないほどあっさり進行した。特記事項としては往復のタクシー代として7,000円也を払ったくらいだ。寺のたたずまいは、さすが深山にあるだけの風格を備えていたが、苦労して登ったわけではないので感激もなく、早々に読経を済ませてタクシーに戻り、09:30寄井中発のバスにとび乗った。もし再度挑戦するチャンスがあれば、脚力と精神力を根本から鍛えなおす必要のあることを痛切に感じた。

 バスは朝来た時と同じ若い運転手が、谷沿いの車がすれ違うのがやっとといった狭い曲がりくねった道路を縫うように走らせている。朝方は、こんなに景色のよい道を走ってきたことにまったく気付かなかった。“フリー・バス”とかいうシステムで、停留所でないところでも手を挙げれば停まってくれることも初めて知った。

十三番大日寺(ダイニチジ)の真前のバス停で下車(820円)し、型通りの参拝を済ませてふと見ると、バス通りを挟んで寺の反対側に阿波一の宮の表示がある立派な神社が目に入った。四国を構成する阿波、土佐、伊予、讃岐のそれぞれの国には古代政庁が第一等と格付けた神社があり、このことは四国に限らず、一宮の地名は今でも日本全国に残っている。いわゆる国分寺との組み合わせで地方国家鎮護の中心地を形成する存在だったようで、歴史としては寺よりも古いと考えられる。私は、神と仏が仲良く共存するのが日本の美点であると、かねがね思っている。早速このお宮さんに参拝し、納経帳の末尾の空白に阿波一の宮の御朱印を頂いた。かつては阿波最大の影響力を持つ神社であったろうに、遍路ブームでにぎわう寺とは対照的に、この時参拝していたのは私だけであった。そもそも日本の寺は、本地垂迹とかいう思想により、仏教の渡来以前から存在した神社と一体化した経緯があり、大日寺と一の宮の隣接関係はまさにこのことを物語るのだろう。こうした歴史に対する理解をもっと深めるのが日本人の務めだと思うのだが、御朱印をくれた神主さんの様子は、納経所で大量の掛け軸や納経帳を張り切ってさばいていた寺方の人の色つやの良さに比べ、やや寂しい印象を受けた。

 大日寺わきの、灌漑用水路で食用ガエルが盛大にグオーグオー泣いている細道をたどり鮎喰川を渡り、十四番常楽時(ジョウラクジ)さらには十五番国分寺(コクブンジ)と巡拝した。国分寺は飛鳥時代にまでさかのぼる阿波第一の寺で、往古はこのあたりが国の中心地であったことがうかがえ、地名も府中(“コウ”と読むそうだ。おそらく“コクフ”がなまったのだろう)となっている。この国分寺もかつての威容は見る影もなく、門前の説明書でそのことを知るのみだ。他の寺々と比べても見劣りのする本堂の前に、昔の堂塔の土台らしき遺跡がむき出しになっており、柄にもなく感傷的になった。先にお参りした常楽寺も風情はあるが閑散としており、同じ札所でも焼山寺や大日寺といったセレブ系(?)との格差が極端のように感じる。納経所にいる人間も、元気がないように思えたのは気のせいだろうか。

 十六番の観音寺(カンノンジ)に向かうだだっ広い平地を真っ直ぐに通じるコンクリートの道をたどっていたら“阿波民俗資料館”の看板があったので、往復3kmほどの道草となるが立ち寄ってみた。このあたりは屋島合戦の折り義経軍が通過した道筋らしい。真新しい小ぶりながら立派な資料館には、平日の昼間のせいか見学者が一人も見当たらない。ごめん下さいと声をかけると、学芸員らしき30歳ほどの担当者が一人いかにも手持無沙汰の様子で出てきて、「ご自由にご覧下さい、これが案内書です」というなり奥の部屋に引っ込んだ。内部には近隣の縄文から古墳時代にかけての遺跡より出土した品々を多数陳列されていたが、よく見ると複製品との表示がやたらに目立ち、やや落胆した。ただ、一の宮といい国分寺といい、さらには古墳からの出土品といい、このあたりがかつては徳島で一番栄えた場所であったことが再確認できただけでも、朝方に大枚のタクシー代を奮発して時間を節約した甲斐があったと、一人で合点して資料館を後にした。

町中の民家に埋もれたようなたたずまいの観音寺から、弘法大師が杖で突いたら泉がわきだしたと言い伝えられる十七番井戸寺(イドジ)までさらに4kmほど歩いて参拝し、伝説の泉を一杯100円也で有り難く飲ませてもらい、JR徳島線の府中駅から徳島市内のホテルに戻った(電車賃約200円)。明日からの寺詣りも市内からのバス便に頼るのが最善の方法と分かったので、フロントで翌日の土曜日も同じホテルに連泊する旨告げた。最初からそうしておけばホテル代が多少安くなったかもしれない、交渉してみようかと、みみっちい考えも浮かんだが、結局やめた。

この日の歩行実績は23,000歩で15kmほどにとどまったが、ついに左足の裏にマメができ水ぶくれとなり痛み出していた。もし焼山寺の登山を決行していたら途中で立ち往生し、悪くすると遍路行を早々と断念しなければならなかったかもしれない。結果論ではあるが、神仏のご加護を感じる。出発に先立ち毎日一万歩ほどの訓練はしてきたつもりだが、四国札所を本格的に歩くには毎日3~4万歩のエクササイズが必要だろう。それも5kgほどの荷物を背負いアップダウンのある道を歩くのが必須条件であり、私にはとてもできそうにない。この先も汽車とバスをフル活用しながらできるだけ歩くように心がけ、オプションとしてタクシーにも乗るグウタラ遍路を貫くしかあるまい。

夕食はホテルの隣のデパ地下で見切り品の弁当を調達し、かねて買い込んであった「阿波金時」のお湯割りをホテル備え付けのポットで作り、部屋の中でしんみりと済ませた。梅干しを仕入れるのを忘れたのが悔やまれ、どこかで手に入れようと思いつつ、うつらうつらしていたようだ。